昭和52年4月20日 朝の御理解                   明渡 孝


 御理解第22節「天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ」


 ●今朝から、ほんの起きがけでしたけれども、お言葉で「吾無力、神力無限」というお言葉を繰り返し頂く。こうこう自分で頷き(うなづき)ながら。●その時にちょうど家の家内から( ? )をたててたというような状態で「ああ、そうだそうだ」というようなことだったんですよ。「吾無力、神力無限」という。
 確かにあの、そういう意味合いで今日の御理解じゃないけれど、十二分に神様のおかげを受けようと思えば、結局、ままよという心になれば、ままよとは死んでもままよぞということぞとおっしゃるように、吾を無くすということ。これが結局神様のおかげを十二分に受ける姿。神力無限の働きを受けようと思えば、いわゆる吾無力ということにならねばならんということになるわけじゃないかと思います。そこに、まだ自分に五十の力があると思えば五十の神様の働きしか受けられないし、八十あると思えばあと二十の神様の働きしか受けられんということになる。
 結局、吾無力、吾がゼロになった時に、それこそ百パーセントに神様の働きを受けられるということじゃないかと思います。特にもう最近しきりに思うことは、もう神様も天地の大恩を頂かなければ立ち行かぬ吾、ということを最近しきりに思うのです。もうこれ以外にないという感じをさして頂くわけです。
 もう、今朝目覚めに頂いたことも、これは後々だんだんと分からして頂くことも大きいだろうと思いますけれども、今日の御理解二十二節からいきますと、お互いおかげを受け漏らしておるとすれば、まだそこに自分の力とか才能とかがあると認めて、と思うておる人が受け物が悪い受け物を持っておる人ということになる。
 十二分に神様のおかげを受けておられる方は、そこにだんだんと吾無力という受け物ができておられる。こんなにやっぱり、底なしの受けものはないし、安全な受け物はないように思われます。
 今日から、親先生はじめ菊栄会のみなさんが、(四国日本?)信心実習会にお出かけになるそうです。まあ、途中の、道中のこと、またあとのことをどうぞよろしくお祈り添えを頂きますようお願い申し上げます。